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【札沼線の現在】北海道医療大学〜新十津川 JR学園都市線廃線跡めぐり 解体・公園整備[2309北海道廃線]
JR北海道の札幌近郊輸送を担う札沼線。 札幌・桑園〜北海道医療大学を結び、学園都市線と愛称が付けられています。 元々は石狩沼田駅まで結ぶことから札沼線と名付けられましたが、新十津川〜石狩沼田が1972 ...
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1987年に行われた国鉄分割民営化。鹿児島から北海道まで張り巡らされた日本国有鉄道の路線は、JR旅客6社に分割されて今日に至っています。
民営化にあたっては多くのローカル線が、鉄道廃止や第三セクター化による路線整理の対象になりました。
35年以上の年月が経ちモータリゼーションや人口減少が進み、JRになってからの廃止路線も数多く存在します。
その中で最初に廃止されたのが、JR幌内線。
1987年4月1日にJR北海道へなってから僅か3ヶ月、7月13日に廃止となった路線です。国鉄時代に特定地方交通線に指定された一方、石炭の貨物輸送も続いていたことから、民営化前の廃止が行われなかったためです。
幌内線は1882年に岩見沢駅から幌内駅が開業。1887年に三笠駅から幾春別駅への支線も開業しました。
1972年に三笠駅〜幌内駅の旅客営業が廃止されてから、旅客案内上は岩見沢駅〜三笠駅の本線と三笠駅〜幾春別駅が一体になっていました。
幌内線は北海道最初の鉄道、官営幌内鉄道が起源です。
1880年に手宮〜札幌が開通し、1882年に札幌〜幌内が繋がったことで全通。幌内の炭鉱から小樽の港へ石炭を運ぶルートが完成しました。
明治時代からの歴史を持ちつつ、JR最初の廃線という特徴ある幌内線。その廃線跡を巡ってみましょう。
幌内線が分岐していました、岩見沢駅です。
JR北海道の中でも重要な札幌近郊路線、小樽〜札幌〜岩見沢の最東端に位置します。
石炭輸送が盛んだった室蘭本線や幌内線が分岐し、その貨物輸送のため東日本最大の操車場、岩見沢操車場がありました。岩見沢市は国鉄が指定した全国12の「鉄道の町」の一つです。
2000年に漏電火災のため3代目駅舎が焼失しており、現在はレンガを多用した複合駅舎。
ガラスカーテンウォールの窓枠には、かつて北海道内で使われていたレールを使用しており、岩見沢がいかに鉄道と密接な町だったか伺うことができます。
中には寄付によって募られた刻印レンガもあって、道内を中心とした住民の方々の名前が刻まれています。
レンガ壁には北海道の伝統的な積み方、小端空間積みが採用されました。レンガを四角く並べたブロックを積み上げていく方式で、レンガの中に空間があることから、断熱性が高いです。
それでは岩見沢駅を出発しまして、幌内線の廃線跡へ向かっていきましょう。
ちょうど岩見沢駅から、函館本線の普通列車旭川行きが出発したところでした。幌内線はしばらく函館本線と並行。
道路突き当たりで函館本線が北へカーブするのですが、この辺りで幌内線はだんだん函館本線から離れていきます。
函館本線近くの廃線跡はJR北海道の土地になっており、北海道旅客鉄道と書かれています。国鉄時代の廃線跡を巡っていると、「国鉄清算事業団」が所有している土地を見ることがあるので、ここに注目するのも面白いです。
国道12号は用水路に沿った幌内線の廃線跡を、橋で越えていきます。
岩見沢駅から出発した幌内線、最初の駅が栄町駅です。
集合住宅と立ち並ぶ一軒家に挟まれた、細長い空き地が駅跡地。
栄町駅は1980年に、国鉄幌内線の栄町仮乗降場として開業。JR北海道になってから栄町駅に昇格しましたが、3ヶ月後の廃線に伴い廃止されています。
仮乗降場時代を含めても7年という短命ですが、駅としてはわずか3ヶ月だけでした。
記念碑には、幌内線さよなら列車が停車する栄町駅の写真が刻まれていました。駅名標も国鉄時代のままで、JR北海道仕様への交換はされていなかったようですね。
岩見沢市内にあった幌内線の駅は栄町駅だけ。幌内線の紹介がなされています。
絵を立てかけるイーゼルみたいな構造、鉄輪が挟んであって、鉄道の心みたいなのを残しているのに、ほっこりします。
プラットホームや線路が敷設されていたであろう空き地も、かなり分かりやすいものでした。
栄町駅周辺の廃線跡上には、かなり新しい一軒家が立ち並んでいます。
近年建てられたであろう見た目でして、除雪も考慮してか道路幅も広く取られていました。
幌内線の鉄道代替バスは、北海道中央バスが担っています。鉄道が無くなった三笠市への足として、岩見沢とを結ぶ重要な公共交通機関です。
石炭輸送のために開設された駅が多いのに対し、萱野駅は地元住民の要望によって設置された駅です。
大きな木造駅舎となっていますが、幌内線廃止後は荒廃。
地元町内会によって修繕されまして、2000年代よりライダーハウスとして使用されています。
枕木のような階段を登った先には、プラットホームを思わせる空間。
静態保存されている車掌車ヨ8103は、ライダーハウスの女性専用車両として使われているみたいです。
栄町仮乗降場は駅名標の隣駅として表記されておらず、岩見沢駅になっています。JRになってからも駅名標の交換どころか、隣駅部分の修正もされなかったみたいですね。
1000円という低価格で利用できるライダーハウス、駅舎内には二段ベッドが常設されています。キッチン、洗濯機、シャワールームまで完備している、ゲストハウス並みの設備です。
萱野駅向かいの「とこや さかなし」さんが管理なさっているとのことで、踏切も残っているのが目印になります。
駅前広場には萱野駅跡の記念碑が建立されていました。三笠市内の幌内線廃駅跡では、同様の記念碑を見られます。
廃線跡はこの先、幾春別川沿いを走行。
いかにも廃線跡っぽい用地を横目に、田んぼの中の並行する道路を走っていきます。
しばらくすると遠くの方に、用水路を渡る橋梁を見られました。読み取ることはできませんが、銘板もついています。
この先の廃線跡は砂利道の農道として転用されています。
三笠市の中心部へ入りまして、三笠駅跡に到着です。
1882年開業時は幌内太駅として開業、1944年に三笠駅へ改称されました。
こちらの駅舎は1958年に改築される以前、幌内太駅時代の駅舎を復元したものです。
駅跡地は三笠鉄道記念館クロフォード公園として整備されています。
旧三笠駅の跨線橋とプラットホームが保存されており、この上を渡ることもできました。
クロフォードはアメリカから幌内鉄道の建設を指導した人物。幌内鉄道の核であった三笠駅跡地に整備された公園に、ぴったりの命名です。
ここでは数々の鉄道車両が静態保存されています。
まず最初に見えてくるのが、DD51ディーゼル機関車。数年前まで名古屋地区の貨物列車を牽引していたのは記憶に新しいです。
北海道開道100年記念式典の際、天皇皇后御幸啓時のお召し列車を牽引した過去があります。
さらに奥へ進みますと、キハ82系気動車。
1961年北海道初の特急「おおぞら」号で使われた車両になります。函館駅〜旭川駅を結んだ特急で、函館駅〜札幌駅の特急主要ルートが山線から海線に変わった時でした。
1等車に当たるグリーン車を連結。
食堂車も備わっており、「気動車」「食堂車」を示す「キシ」が書かれています。
駅構内にある車両は、JR北海道から貸与されているものだそう。JR北海道の鉄道博物館は無いですが、三笠鉄道記念館はその代わりみたいになっています。
開業してから30年ほど経った幌内太駅の構内図がこちら、9本の線路が並行して並ぶかなり広大な用地だったことが分かります。
三笠駅からは幌内方面と幾春別方面に分岐していますが、岩見沢から幌内へ直接線路が繋がっていません。三笠駅到着後は2回進行方向を変えるスイッチバックが必要でした。
ここからは幌内線の本線、幌内方面へ向かいます。
三笠駅〜幌内駅は本線ですが、1972年に旅客営業が廃止されました。
沿線には炭鉱住宅が立ち並んでおり、どこかの夕張市で見たような光景が広がっています。
途中にあったのが、幌内住吉駅。幌内炭鉱で働く人が増加したため、単行組合から要望されて1950年に開業した駅です。
蒸気機関車にとってはかなり急勾配の25‰、その途中に設置されたため冬場は駅に停車すると一度で登りきれなかったこともあったそう。
ホーム跡っぽい石組みの構造物があって、その名残を感じることができました。
現在でも三笠駅と幌内駅の間で三笠トロッコ鉄道が走っており、こちらの踏切では一時停止をするよう看板が立っています。
引き続き幌内駅へ向かいますが、やはり廃屋が非常に多いです。廃業した個人商店なども散見され、炭鉱産業が無くなった街の成れの果てを目の当たりにします。
幌内線の終着駅、幌内駅跡に到着しました。
こちらは三笠鉄道記念館となっており、こちらにもJR北海道から貸与された車両が静態保存してあります。
1972年に旅客・荷物の取り扱いを廃止し、1987年4月にJR北海道へ継承。
同年6月20日限りで石炭の出荷も終了しまして、臨時快速「ほろない号」がさよなら列車として運行されました。
特定地方交通線に指定されて廃止が決まったことにより、この三笠鉄道記念館はまだ貨物運行が行われている中1985年に着工。幌内線廃止1ヶ月半後の9月6日に開館しています。
1987年は三笠鉄道記念館開館、三笠市制30周年、道央自動車道三笠IC完成、道道夕張芦別線開通などが重なっていたことから、北海道交通科学博覧会の開催を計画していました。しかし三笠鉄道博物館の建設が遅れ、博覧会は中止されています。
館内には北海道の鉄道好きとしては堪らない、さまざまな展示物が豊富です。
幌内線さよなら列車のスタフが展示されていました。
往路は岩見沢→幾春別→三笠→幌内のルートで運行され、最後は三笠〜幌内でも旅客運行が行われたのです。
こちらは三笠駅の岩見沢方面時刻表、1日7往復運行されています。
現在北海道中央バスは岩見沢〜幾春別で12往復、幌内〜三笠で10往復運行しており、30年以上経って減便した今でも利便性が確保されていました。
幾春別行、幌内行のサボが展示。幾春別行は隅丸ゴシックのフォントで、やや時代の変遷が分かります。
おそらく三笠駅に設置されていた運賃表です。空知炭田に張り巡らされていた鉄道路線、定山渓や寿都などかつてあった私鉄の駅まで記載されていました。
こちらは幌内鉄道で使用されていた、1890年製レール。道内で発見されたものでは一番古いレールとのことです。
幌内鉄道から始まった北海道の鉄道。炭鉱から港への輸送ルート形成を最重要視しながら、全道に線路が張り巡らされました。
それが1980年代に次々廃止。国鉄最後の廃線は国鉄羽幌線、民営化の2日前でした。
博物館には歴代の時刻表も置いてありまして、こちらは民営化後最初の時刻表。JRデザインで幌内線が記載されている、非常に珍しい路線図です。
幌内駅を離れまして、今度はJR北海道になってからも定期旅客列車が運行されていた、幾春別方面へ向かいます。
道中には幌内駅跡から山を挟んで反対側、北炭新幌内砿の跡地が見られます。1966年開坑の幌内立坑も残っており、社紋や幌内の文字もありました。
2011年廃校になった、旧三笠市立新幌内小学校も植物に埋もれ始めています。かつては子供の声も聞こえる集落だったはずですが、物悲しさが非常に強かったです。
その石炭を搬出するため、1929年に開業した唐松駅。
まるで芝生広場を整備したかのような、かつての駅構内。ここからは専用線も伸びており、沢山の線路が敷設されたと想像できます。
以前は旅客ホームも2面2線でしたが、廃止直前には単式ホーム1面1線となりました。
1941年、1953年の2度増築した大きな駅舎。コンクリートによるベタ基礎に、木造駅舎の壁面にはレトロな看板も掛けられていました。
ライダーハウスになった萱野駅と同じように、駅舎は廃線後荒廃していたそう。地元有志の方々によって、建物の修復や周辺整備が行われました。これについての新聞記事も紹介されています。
窓口跡には駅ノートもあって、非常に愛されている駅と感じます。
右側の待合室部分と、左側の駅事務室部分の2棟が直交した構造です。
正面が切妻で勾配が二段階の屋根が特徴のギャンブレル屋根で、ヨーロッパから18世紀にアメリカに伝承された西洋由来のデザインになっています。
廃線跡は道道116号と並行。
集落があるところから下へ降りてきまして、数軒住宅が見られる場所です。
こちらが弥生駅跡、ところどころ砂利が顔をのぞかせる、草生した広場です。
こちらにもぽつんと弥生駅跡の記念碑が立っており、ちょっと台座からズレているのが不気味…。
弥生駅には駅舎があったのですが、民営化直前の1987年1月に不審火で全焼しました。
地面には基礎っぽい構造物だけ見られます。
少しくぼんだ部分もありまして、ここに線路が通っていたものと思われます。
そして終着駅の幾春別駅へ。
飲食店や市民センターなどもある、三笠市における主要な街の一つです。
駅舎は残っておらず、ログハウス調のバス待合所が設けられています。
駅跡地には駐車場やバス乗り場などが整備され、この先の北炭幾春別炭砿へ伸びていた専用線跡上には、三笠市立博物館が開館しました。
駅前に集まる昭和感溢れる建物の向こうには、住友奔別炭砿立坑も残っています。鉄道黎明期から人々がここを目指した理由の分かる、石炭産業の集積地です。
国鉄からJRへの区切りを一歩越えた形で、廃止されたJR幌内線。
完全に石炭産業へ依存した鉄道だったことを突きつけられる、そんな廃線巡りとなりました。
石炭採掘から北海道開拓の歴史を見られる、非常に興味深い廃線跡。比較的路線バスでも訪れやすい場所ですから、再訪してまたご紹介できればと思います。
今回もご覧いただき、ありがとうございました。
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