列車は稲作を支える雨竜川を渡り、秩父別町へ入ります。そして、深川市内の唯一の駅へ。
北一已駅でした!
深川駅から1駅で、なかなか素敵な景色が広がる駅です。
ホームからはそば畑と田んぼが広がります。1、2年ほど前まではこのそば畑も田んぼだったようですが、変わったようです。
しかし、お蕎麦の白い花がなびく様子は一面田んぼが広がるよりも楽しめる景色だと感じます。
難読駅名、北一已は奥が深い
さて、ホームからの景色はほどほどに、駅の方を見ていきましょう。
この北一已駅の漢字で『已』が目に付く方が多いのではないかと思います。『巳』や『己』とは違うんですよ~。
『已』の字を使うのは個人的な経験では高校の古文の授業で『已然(いぜん)形』の時に使ったくらいで、他にはないように思います。
元々の地名、一已村はアイヌ語でこの地域を『サケ、マスの産卵場(イチャン)』と呼んでいたことが由来です。しかし、この地名はアイヌ語の音に合わせただけではないようです。
開拓当時、一已村には屯田兵が数多くいて、権威を振るっていたことから『一にして已(や)む』という言葉をかけて一已村の字があてられたそうです。
また、北一已駅は1997年に『きたいちゃん』から『きたいちやん』に改称されました。
理由は分からなかったのですが、予想では、『已』を『ゃん』と読むことはできないため、『やん』に変えられたのでは?と思っています。
90キロ駅舎移動って…?
駅名だけでも面白い北一已駅ですが、今回の話題は駅舎についてです。
駅舎はグレーと白色の塗装をした、少し暗めの駅です。かつては塗装された木板が貼られておらず、木材が貼られた駅舎でした。
北一已駅は周辺住民の願いによって、1955年に開業しました。ホームや駅舎は住民の出資によって作られたそうです。
そして、その駅舎がどのように出来たのか、それをご紹介していきます。
1995年まで深川と名寄を結ぶ深名線が走っていました。(赤線は大体の路線)
そして、1941年から1956年まで、朱鞠内湖辺りでダム建設のために宇津内駅(のちに仮乗降場)が設置されていました。
しかし利用客減少のためわずか15年で廃駅に。
ここで、目をつけたのが北一已の住民でした。
住民たちは廃駅になった宇津内駅の駅舎を自ら解体し、90キロそれを運び、再び建設しました。
輸送方法は深名線を使ったのかトラックを使ったのかわかりませんが、いずれにしてもかなり大変だったということがわかります。
そのような歴史が駅舎内に貼られていて大変参考になりました。『一已史』という本に更に詳しく書かれているようです。
改めて駅舎を見てみましょう。
住民自らホームを作り、資金が十分でないながらも廃駅から運んできて、ここに建てた。そんな歴史を知ると、駅の設置がどれだけ住民にとって悲願であったか、想像に堪えません。
しかし、駅舎の前はご覧の様子。
利用客も1日あたり1人以下で、かなり厳しい状況です。
第2の人生を歩んだこの駅舎も、もしかしたらまもなく無くなってしまうかもしれません。
駅舎内には北一已駅が写ったキリンビールの広告。
冬の寒さが伝わってくるような古びた駅舎ですが、そんな駅舎の歴史はとても興味深いものでした。
続いてはNHK連続テレビ小説のドラマセットもある、恵比島駅へ向かいます。
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